イラン ヤーズド 『はちみつクリームおじさん』

2013.1.26

宿の本棚にあった日本語のガイドブックよると、ここヤーズドにある「沈黙の塔」が必見とのことだった。
他にはさしたる名所がなさそうだったので、行き先を「沈黙の塔」に絞り、宿から約十㎞のそこまで歩いて行くことにした。
案の定、宿を出てすぐに迷った僕は、イスラム教国家のイランでは気軽に女性に声をかけてはいけないかもしれないと思い、男性に限って道を訊ねた。
「すいません、沈黙の塔に行きたいのですが」
何人ものイラン人男性に訊ねるものの、老若問わず、このやり取りが全くもって要領を得ない。
皆立ち止まってくれるものの、こちらの思いがてんで伝わらない。
それでも、何度も苦笑いのやり取りを重ねていくうちに「沈黙の塔」の現地での呼称が「ダークメ」であることがわかった。
「ダークメ」
呪文のようなその呼称を仕入れた僕は、どちらの道か迷うたび近くにいる少年、青年、おじさん、おじいさんに声をかけ、交互に左右の道を指しながら「ダークメ?」と首をかしげて唱え、どちらか教えてもらった。
宿を出てから約三時間。
ようやく着いたダークメ「沈黙の塔」は広い更地の中に『三匹の子ブタ』の三男が建てた小さな住居のようなものがいくつかあり、中を覗くと、誰かが残したゴミが散乱していた。
中に入って奥を探ってみると、火を焚いた跡と「奥にある誰かが残したゴミ」が散乱していた。
誰かが残したゴミを見終えてから、近くにあった小山を登ってみた。
頂上まで登りきると、そこには円状の周囲二百メートルほどの壊れたレンガ塀が残されているだけだった。
レンガ塀の上から辺りを見下ろしてみると、遠くにヤーズドのまちなみが見えた。
しかし、その光景には色がなく、ひどく殺風景なものだった。
「心が枯れていきそう…」
そう思った僕は、心にカラスが飛び交う前に、バスに乗って帰ることにした。
バス停のベンチに座りバスを待つ間、イランで見つけて気に入ったはちみつクリームをパンにつけて食べていると、初老のおじさんがゆっくりと歩いて来て横に座った。
すると突然、おじさんは僕が横に置いていたはちみつクリームのカップをひょいと手に取り、右の人差し指ですくって食べ始めた。
着ているものも、表情も、雰囲気も、どこも変わった様子のない、普通のおじさん。
その限りなく普通のおじさんは、僕のはちみつクリームを指ですくって食べている点だけにおいて、あまりに普通じゃなかった。
時間にしてどれくらいポカンとしていただろうか。
目の前で起きている出来事に考えが追いつかず、ただ見入ってしまっていた僕は、もうすぐ食べ終わりそうなところでおじさんと目が合った。
「やばい」
瞬間、急激に恐怖がこみ上げてきた僕は、おじさんが最後のひと舐めを終えた瞬間に恐ろしいことが起きることを察し、リュックをデタラメに掴んでその場から走り去った。

翌朝、僕はヤーズドのまちをあとにした。
色のないヤーズドのまちに惹かれるものがなかったから。
そしてもちろん、再びはちみつクリームおじさんに出会ってしまったら、はちみつクリームだけでは済まないと思ったからだった。
はちみつクリームおじさんは、たった一言も口にすることがなかった。 あまりに恐ろしい、沈黙の塔のまち。


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